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高山善光寺元住職・故泉信潤上人に思いを馳せる

今回は、ここ高山善光寺の歴史に触れることができた一つの私の経験について、ご紹介差し上げたいと思います。私は今年2020年の2月より当山宿坊を運営する会社「お寺ステイ」の東京本社からマネージャーとして赴任してまいりましたが、2週間ほど経った頃でしょうか、こんなにも珍しく素晴らしいご縁がございました。

突然の供養依頼

それはこの2月のある日「テニアン島で戦死したおじの供養をしたい。」と、一組のご夫婦が突然いらっしゃったことでした。

私はここ善光寺に赴任した際に、先々代ご住職の功績をお聞きしておりましたので、すぐにお二人を居間へご案内差し上げ、話を詳しくお聞きすることにしました。すると、その日お寺へいらっしゃった経緯というのは、実はちょうどその一週間ほど前にも高山近くに住む御子息を訪れ、その道中この善光寺前の信号で停車した際にたまたま「第2次大戦時のテニアン島の戦いの追悼碑」をご覧になり、そしてその数日後に何かの折に今度はその高山善光寺の先々代住職が実はテニアン島にて自身も戦い、そして戦後に戦死者の御霊(みたま)を供養されていたという書物をたまたま読まれ、それでいてもたってもいられなくなり改めて三重から来ましたというものでした。

「まるでおじに呼ばれているかの様でしたので。」と、その奥様は仰っておりました。

留学時の経験

話は変わりますが、私にはかつて米国留学時にこんな経験がありました。確か大学生活もあと少しで卒業といった頃であったかと思います。

ある日、日本人の友人が歴史学を専攻する私を訪ね「これって第2次大戦中のだよね?!」という具合で、かの大戦中の日本兵の遺品の数々を持って来ました。当然私はびっくりして友人に「一体どういうこと?」と尋ねると、彼は「これ同じ学部の子が家の屋根裏で発見して持ってきたんだよ」と話します。私たちは興奮しながら、とりあえず興味を持ちそうな日本人数人に声をかけ全部の遺品を広げると、その場にいた全員がその遺品の凄みにある意味言葉を失い、しばらく立ち尽くしてしまいました。その中には日章旗もあり、もう名前は忘れましたが「〇〇君 祈武運長久」と大きな字で書かれ、そしてその周りには多くの人々の寄せ書きがなされてありました。そして更に驚いたのは、その一人一人の字がとても達筆であったことでした。

「この旗がここにあるっていうことは、持っていたご本人は確実に戦死しているよね。」

「あれ?ここにあるの、血じゃない?」

と、その心のこもった寄せ書きが綴られた血の日章旗に私達はただただ涙をし、その夜は日本人同士でその遺品の数々と一緒に下戸の私も含めて酒を交わしていました。

その後友人によると、その遺品は私の説明をもとに本人へ返したとのことでした。

ただ、この話には余談があって、その遺品の中に唯一場所と名前が特定できる写真が一枚あり、その写真だけは後日、日本のご家族のもとへ帰りました。その写真によって、当時そのアメリカ人の祖父は沖縄戦に参加し、遺品をいわゆる戦利品として持って帰ってきていたということが結果としてわかったのでした。

本堂にて

私は、そのご夫婦のお話を一通りお聞きした後、本堂へお連れし三人で般若心経をあげ供養させていただきました。

私はかつてアメリカの地にて学士レベルではありますが、アメリカ外交史、特に日本との関係について学習してきました。当時のアメリカの立場、そして日本の立場についても細かいところまで勉強をさせいただきました。ですので、そのサイパン・グアム・テニアンの戦いの様子がどうであったかも当然知っております。本来ならいつも通りの平常心でないといけない読経でしたが、この時ばかりは心に迫りくるものを抑えるのに必死でした。

ここ高山善光寺には、この太平洋は遠く南のテニアン島にて、戦後ずっと遺骨の収集と供養をされていた先々代住職・泉信潤上人がおられました。今も近所の方は上人さまを慕われて、たびたび私にお話をされます。そのたびに私は、もう約20年も前にテニアンで遺骨収集中に事故で亡くなられたこのご住職に思いを馳せます。(平成11年2月8日ご遷化)その功績の大きさそして素晴らしさに、私はただただ頭が下がるばかりです。

三重からお越しのご夫婦におかれましては、別れ際にまた今度は宿泊でお伺いしますねと仰っていただきました。こういった新しいご縁がこれから高山善光寺にて末永く続くことを願ってやみません。

 

合掌

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