お寺について

住職ご挨拶

宿坊は仏教寺院などで、おもに修行中の僧侶が寝泊りをする建物でありました。
本来は僧侶のみが宿泊する施設でしたが、平安時代の寺社参詣の普及により、貴族や武士、更には一般の参詣者も宿泊させるようになりました。
現在ではお寺の団体参拝はもちろんの事、個人、日蓮宗の信徒ではないお客様もお泊り頂けます。
お寺に泊まるの?と疑問に思う方もおられると存じますが、ホテル、旅館とはまた違う趣がございます。
お泊りの際は、早起きをして、ぜひ日蓮宗総本山 久遠寺の朝勤(ちょうごん=朝のお経)にお出かけ下さい。
身延山の霊気と久遠寺の荘厳な空気に身も心も癒されます。
また、当坊秘伝の御祈祷を用いた、ご祈願、ご相談、ご供養も随時受け付けておりますので、お若い方もお気軽にお申し付け下さい。

志摩房 住職 佐藤順行

志摩坊の歴史

749年前、日傳聖人(善智法印)により開創

当坊は、建治元年(1275年)2月8日、中老僧 肥前公 恵朝阿闍梨 日傳聖人(ちゅうろうそう ひぜんこう えちょうあじゃり にちでんしょうにん)によって開創されました。
日傳聖人はもと真言宗の山伏で、善智法印(ぜんちほういん)と称しておりました。現在、身延山より甲府方面に車で30分ほど向かいますと、富士川町という町があり、そこに小室山という山がございます。今より約750年前の昔、小室山には真言宗の寺院があり、現在の関東一帯の真言の寺院を治めるほどの古刹でありました。
善智法印はこの寺院において真言、修験の道を修め、ついには住職となりました。

善智法印と日蓮大聖人との法論、法力対決

日蓮大聖人は文永十一年(1274)5月17日に身延山に入られ、しばらくの間、甲州の地を法華経、お題目の教えを布教に周られました。その折、善智法印が大聖人の噂を聞きつけ、法論、法力対決を挑みました。

伝説によると、善智法印が真言を唱え、空中に大きな岩をうかび上げると、大聖人が法華経、お題目を唱え、その岩をおろせなくしてしまったと伝えられます。
あっけなく、対決に敗れた善智法印はその場では大聖人に降伏をしました。しかし、内心、怒りの治まらない善智法印は大聖人の後を追いかけ、毒殺を試みたのです。

善智法印、日蓮大聖人に弟子入り

現在、身延山より車で10分程の所に、逆さイチョウで名高い、上澤寺(じょうたくじ)というお寺がございます。当時はこのお寺も真言のお寺でありました。
善智法印は当時のこのお寺の住職、法喜阿闍梨と相談し、帰路の大聖人にこのお寺での休憩をもちかけ、毒入りのぼた餠を差し上げました。

勧められるがままに、大聖人がぼた餅を食べようとした、まさにその時、どこからともなく1匹の白い犬があらわれました。大聖人は、お前も食べたいであろうと、ぼた餅を犬にあげたところ、一口食べた犬は血を吐き、たちまちに絶命してしまいました。
この光景を目の当たりにした善智法印は、大聖人の不思議な神佛のご加護の前についに観念し、心からお詫び申し上げ、弟子入りをお願いしました。

日傳(にちでん)と名を授かる

その後、大聖人は、「おのずからよこしまにふる雨はあらじ 風こそ夜半の窓を打つらめ」と和歌を詠み、雨も風によってまっすぐ落ちずに、窓へと当たる、同じように善智法印も正しい心を持っていても、間違った教えにより道を誤っただけなのだと諭され、新たに日傳(にちでん)と名を授け、弟子入りをお許しになりました。

志摩房の開創

日傳聖人は以降、大聖人のおそばで懺悔、お給仕申し上げるべく、自らの庵を要行院 志摩房と名付け、開創したのであります。
現在の志摩房は東谷の地にございますが、当時は町営駐車場の上方にあり、この地を日傳上人自ら醍醐(だいご)と呼ばれたことから、その一体を醍醐谷と称すようになったと伝えられております。
志摩房において常随給仕すること三年を経て小室山へ帰り、寺も妙法寺と名付け日蓮宗の寺に改めました。

そして現在へ

志摩房は身延山久遠寺第六世法主 実教阿闍梨日院上人が二世となり、日傳上人の俗弟と云われた朝学院日義上人が三世を継いで基礎を固められました。
文政十三年(1830年)には、現在の志摩房の地にあった秀悦坊と地所を交換し、醍醐谷から移転。後に数度の合併を経て現在に至っております。
合併した坊の歴代上人を加えますと、ゆうに百代以上の住職が居られます。当地に落ち着いてからの志摩房は現住職 佐藤順行(さとう じゅんぎょう)で三十三代目。令和6年で750年の歴史がございます。